第4回「凄いプロデューサーがいたもんだ。“社長シリーズ”篇」
                         (表紙をクリックすると目録へ)     前回の“店主のくりごと”へ

戦後の日本映画黄金時代には凄いプロデューサーがいたもんであります。 
 その中で“日本映画の父”と云われる人が、ご存知!マキノ省三であります。 このマキノ省三は“父”と称される程ですから、実の生みの親であり創生期の日本映画を背負って立ち、プロデューサーであり、監督であり、映画会社の社長であり、興行師でもありと、八面六臂の大活躍をした日本映画最高の功労者なのであります。 このマキノ省三には二男二女の子供がおりまして、彼らは父の映画作りの仕事を小さい時から子役として手伝わされて育ちました。 そして後に長男雅弘は監督として、次男光男はプロデューサーとしてこれまた父に負けないほどの功績を残したのはご周知の通りであります。

 この日本映画初のプロデューサーとも云うべきマキノ省三の一代記を綴ったのが、長男マキノ雅弘著の「カツドウ屋一代」であります。 この本は昭和43年に栄光出版社より発行されたB6版の小さな本ではありますが実に中身の濃い、マキノ一家の映画草創期の生き様を活写した素晴らしい一代記であります。 〈本書は著者が原作のテレビ番組「カツドウ屋一代」昭和43年毎日放送製作を活字化したものだそうです。〉

 ところで、「カツドウ屋一代」に続いて読んだのが日活のアクションスター宍戸 錠の書いた「シシド 小説・日活撮影所」であります。 日活と云えば前述のマキノ省三が創り出した“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助でありまして、戦前は“時代劇の日活”と云われ大変な勢いだったそうですな。この日活が戦時中は洋画の配給で何とか息をつないで来て、昭和28年(1953年)堀久作社長が日活の映画製作再開を宣言するところからこの宍戸の小説は始まるのであります。

これがなかなか面白い。 宍戸錠はご存知の通り戦後の日活アクション映画黄金期を陰で支えた名バイプレイヤーである事は云うまでもありませんが、それ以上に日活アクション映画におけるムードメーカーでもあったのです。 台詞から身振り、ファッションに小道具、そして微妙なストーリー展開と、更にそのアクションの演出に至るまでかなりの部分において宍戸の存在が大きかったと思われるのであります。もし、彼なくば小林旭の「渡り鳥シリーズ」や赤木圭一郎の「拳銃無頼帖シリーズ」などは“無国籍映画”と云われたあの独特のムードも無く、単なるドタバタ和製西部劇で終わっていたのではないでしょうかね。ちなみに宍戸の出演しない和田浩治の作品を見れば一目瞭然ですな。(ただ和田浩治が若過ぎたからと云うだけでなく、もし宍戸が出演していたら彼なりに何かまた工夫して一味違ったものになっていたと思われるのですが、如何なもんでしょうか?)

  昭和28年、日活が募集した第一期ニューフェースに日大芸術学部演劇科の学生であった宍戸は応募し悪戦苦闘の末、何とかニューフェースの一員としてもぐり込みます。 様々な失敗を繰り返し、失望、焦燥、忍耐そして開き直り、遂にはいい役をもらう為には“違う人間になったろ”と整形手術までする、宍戸の凄まじい生き様と役者根性を見せつけられるのですが、しかしそれが惨めったらしくなくサラリといかにもジョーさんらしくってクールでよいのです。 そして“殺し屋ジョー”として売れてきた宍戸をいよいよ裕次郎、旭、赤木、和田のダイヤモンドラインに加えて、ニュー・ダイヤモンドラインとして主演作を作ると日活首脳部に言い渡されたシシドは、そこでまた「俺はワキにいた方が光り輝いているンじゃないか」とマジメに悩むのであります。 そんな時、ダイヤモンドラインの大黒柱である石原裕次郎がスキー場で事故に遭うと云う事態が発生します。 丁度そのスキー場に行っていたシシドや待田京介に日活撮影所長から電報が届きます。 “ニッカツハイユウ スキー キンシ スグ カエレ 二六ヒショウゴ マデニ サツエイジョニ ゼンインシュウゴウ セヨ”

「何か大変な事態になっているに違いない」しかしその事故の内容までは分からない。「一体どうなっているのだ。」と、ここでこの小説・日活撮影所は“つづく”として終わっています。

 この本は小説と銘打っていますが宍戸錠の自伝であり、それと平行して戦後の日活が堀久作の手によって映画製作を再開し、当時の日本映画界の五社協定(松竹、大映、東宝、東映、新東宝による、スター引き抜き防止五社協定)に挑んで七転八倒した挙句、再開から5年目の昭和33年の正月映画、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」で大ブレイクするまでがかなり詳しく語られており、正に堀久作社長によって新生なった日活撮影所物語ともなっているのであります。

 さて、こうして明治40年から映画の製作に取り組んできた“映画の父”マキノ省三の一代記とこの宍戸 錠の「小説・日活撮影所」を読んでみると、どうも日本の映画界におけるプロデューサーとは映画会社の社長そのものであり、タイトルバックのトップに製作者として名前を掲げる絶対的権力者であったのではないかと思えてきたのであります。 思い起こしてみると、あの東映の三角マークと岩に砕ける波しぶきのタイトルバックのあとに必ず 製作 大川 博と一人だけこの人の名前が出てくるのが不思議でならなかったのです。(どうです? 皆さんは。)

  そうすると、映画会社の社長または経営者であってプロデューサーとしてその名を連ねた、東映の大川博、大映の永田雅一、松竹の城戸四郎、東宝の藤本真澄の各氏は、日本映画のために何をしたのか、そしてどんな人だったのかがやたらと気になってきたのであります。 そこで彼等に関する本、特に彼等自身が書いた本はないかと、インターネットであちこちの古本屋さんのサイトを覗いてみますと、なかなか貴重な本が有りました。 そこで今回はこれらの本について一くさりしてみようと思うのであります。 言わば、今回は映画会社の“社長シリーズ”でありますな。

日活 堀 久作社長 東映 大川 博社長 大映 永田雅一社長 松竹城戸四郎社長 東宝 藤本真澄社長

ところで、日活の堀久作氏の著書はどうも存在しない様でどうしても見つかりません。(辻 恭平著の「映画の図書」にも載っておりません。 何方かご存知ありませんかね?) それから、日活のプロデューサーと云えば戦前から映画監督を経験し、戦後は溝口健二の「西鶴一代女」や小津安二郎の「宗方姉妹 」等の名作を製作し、映画製作を再開した日活においては裕次郎映画のヒット作「嵐を呼ぶ男」から小林旭の「渡り鳥シリーズ」等々をプロデュースした児井英生と云う凄い一匹狼の専属プロデューサーがいたのは皆さんご存知の通りです。 この児井英生氏については本人の著作になる「伝・日本映画の黄金時代 」と永井健児著「活動屋 児井英生」の素晴らしい本が有るのですが今回はとにかく“社長シリーズ”という事でここでははずさせていただきます。 (また何かの機会に是非取り上げたい本なのではありますが。)

それではまず、あの三角マークの後にいつもデーンと出ていた東映は大川 博の著書「この一番」からまいりましょうか。

大川は東急の総師五島慶太に呼びつけられて東横映画、大泉映画、東横配給の赤字三社を統合して「東映」と改められた東急の大赤字部門である映画事業を立て直せ、と社長のポストを押し付けられてしまいます。  東急電鉄で経理部門を歩んできた大川にとってまったく畑違いのこの映画会社社長と云う辞令は青天の霹靂です。 何度も辞退したがどうしても許してもらえず結局引き受ける事になります。 そこで開き直って、映画の事は映画の専門家に任せればいい、自分は経理畑出身だからと先ず手をつけたのが、街金融から借り入れた高利の莫大な借金を如何に早く無くすかでありました。 まるで種も仕掛けもある手品のような経理的手練手管を駆使し大川は昭和26年当時、10億円もあった借金をなんと2年で返済してしまうのです。 凄いもんですな、もし経営的手腕と云うか借金返済手腕に興味のある方はお読みになっては如何でしょうか? その他、利益追求の為にと、当時ロードショウ劇場以外の映画館では各映画会社の作品の混合2本立て興行が主流であったのを自社作品での2本立て興行へと強行に切り換え、東映映画専門の映画館をどんどん建て、利益率を大幅に上げる事に成功します。 更に“時代劇は東映”と云うキャッチフレーズを掲げ他社と一線を画した娯楽映画に徹したスター・システムを構築して他社の客まで根こそぎ持っていったのであります。  こうして、経理マンとしての手腕を大いに発揮し、東映という新興映画会社の屋台骨を作ったのでありますから大川の功績は大変なものではあります。 だからあの東映のタイトルバックの後にたった一人でデーンと大川 博の名前が出ていたのでありましょうか。

さて次は、大映の永田雅一著の「映画道まっしぐら」であります。 

「永田ラッパ」と言われた通り、なかなかのハッタリ屋で本書の中でも彼自身で「“ラッパ”の異名をとり」と、誇らしげに自認している程です。 永田は黒澤明の「羅生門」がグランプリを獲ったお陰で海外の何処に行っても、そのプロデューサーとして大歓待を受け大いに日本の映画人として面目を施し又、外貨獲得に大いに貢献していると自慢気に語っております。何しろ1ドル360円の時代の事で、円の力が弱いのですから外貨獲得と云ったらそれはそれは国家的賞賛ものだったんでしょう。 

そしてこんな凄い事も云っております。 「興行成績がいいとか、悪いとかは別として、「羅生門」と「源氏物語」を撮ったということは、やはり製作しておるプロデューサーの僕の意図した二部作なんだよ。」と、どうです凄いでしょう。 果たして「羅生門」は永田が意図して作った作品でありましょうか。(黒澤さんはこの本を読んだのでしょうかね。) 本書はいろいろな出版物に永田が書いたものや、また書かれたものを収録しもので、プロデューサーとしての永田を観ると云うより、「永田ラッパ」といわれた永田雅一の人間性を垣間見ると云う意味においてはなかなか面白いのであります。 永田の経歴についてはインタビューに本人が応えている部分をご覧いただきましょう。

 問  あなたが日活をやめられてから、この会社を経営されたイキサツなり、その後の経過はどうですか。

永田 私は大正13年日活撮影所に始めて入社したのが映画人としての振出でした。そして昭和9年まで10年間勤め辞職する際は所長代理を勤めていました。

昭和9年第一映画プロダクションを創立し、約3年間経営したが、遂に経済的破綻をきたしたので、さらに一党を引き連れて当時苦境時代の新興キネマ株式会社に拠り、京都撮影所長に転任し、重役になり部長を兼務した。(中略)
    
昭和16年映画界の新体制が成り、当時の日活製作所、新興キネマ、大都の三社が合併して昭和17年1月27日に大映を創立して今日およんだのです。創立1年目に菊池寛氏を口説いて、初代社長に据え、私は副社長となり、昭和22年3月菊池寛氏の勇退と同時に社長に就任しました。(本書P280〜281より抜粋 ) 

 まあこんなところが、この談話の収録時点(昭和25年9月)までの永田雅一氏の映画道における経緯であります。どうです、とにかく映画道一筋の人ではありますな。

以上2冊の本を読むとこのご両人は映画製作者ではあるが制作者(クリエイター)ではなく、やはり映画会社の経営者としての観点に立った発言や内容が濃厚ですな。 わたしとしてはやはり制作者としてのお話を聞きたいのでありまして、どうも今ひとつスタンスの違いを感じざるを得ないのであります。(衣へんの付く製作と付かない制作に関して、私は個人的に、勝手に拘っているのです。 スイマセン。つまり、そのですね。あまり商売の事ばかり云っている経営者より「本当に映画創りが好きで、好きでしょうがなくて、ノメリ込むように映画制作に取り組んでいるマキノさんみたいなプロデューサーの方がいいなぁ」と勝手にわたしが思い込んでいるに過ぎないのでありますが。 )即ちわたしがプロデューサーという言葉からイメージするのは製作者であり且つ制作者でなくてはイケナイのであります。

   次は松竹大船調を創り上げた城戸四郎 著の「日本映画傳・映画製作者の記録」であります。

「僕が一高に入ったときは、丁度 菊池寛、久米正雄、芥川龍之介の三羽烏が大学に入った時で、近年希な才物が文科に集まったと言う噂を聞いたのは、僕の入学間もないことであった。」で始まる本書は城戸が「キネマ旬報」の田中純一郎から、映画三十年を書いてもらいたいと、たのまれ同誌に約一ヶ年書き続けたものを収録したものです。

新聞記者になることを目指していた城戸が、家人の知り合いであった松竹の大谷社長から誘われて大正11年に松竹キネマに入社してからの映画人生30年の経験を通して綴った城戸流映画製作論であり、サブタイトルにあるように“日本映画伝”でもあります。 城戸は大正13年30歳の時に蒲田撮影所の所長となり、それまでの映画が歌舞伎や新派の舞台の延長線上にあったのを、もっと身近なところにあるリアルな題材で撮るべきだと島津保次郎監督に自己の映画理論をぶつけて、ここに前期松竹蒲田調が芽生えたのであります。

この頃、スターの引き抜き合戦があり、日活に痛い目に合わされた松竹がその報復としてその頃、日活のナンバーワン・スターだった鈴木伝明を引き抜いたエピソードは有名な話ですが、こうしたスターの引き抜き問題はスター・システム(人気俳優本位)によるところが多く又、人気俳優が企画から演出にまで口を出す様なってきたこの時期、城戸は映画製作の基調をスター・システムにおくべきか、ディレクター・システム(監督本位)おくべきかに頭を悩ませていたのであります。 その結論として「結局スターがいかに良くても、内容がつまらないものだったら客は来ないということを経験しているから、スター本位というものは、どうも賛成できない。そうなると企画からシナリオ作成、監督にわたっての島津の才能は、ディレクター・システムの確立の上に大きな貢献をしたことがわかる。」と語っておりますから、その後の松竹のディレクター・システムがこの時期すでに萌芽していたと云うことでしょう。

この蒲田調がディレクター・システムの上に確立した昭和の初期において、既に城戸は「当時評判なった外国映画と日本映画の違いはどこにあるか、それがわれわれの問題となった。」として「新しい映画形式の基調は出来たが、題材・企画のオリジナリティに不足している。つまりシナリオ・ライター、脚本部の充実というものが大切になった。(中略)なにしろ映画は新しい芸術だから、何もかも新規に養成しなければ、内容・形式ともに合致したものにならない。そこで、シナリオ研究生というものを養成することにした。」とシナリオの重要性を感じとり脚本家の養成に力を入れ、監督候補生にはシナリオをどんどん書いて持ってくるよう厳命したりしています。 これでこそプロデューサー(製作者)でありクリエイター(制作者)なのではありますまいか。

こうした映画製作の体制作りをする一方で、城戸は映画会社の経営者として観客動員の上から映画という商品が如何なる物かを分析しその結果、女性客の重要性を考え、蒲田映画は女性を味方にしたと云う、彼独自の理論によって映画製作論が展開されてゆくのであります。そして、こうした城戸の考え方が後の大船調作品を生む下地となっているのです。 どうです。 こうして観て来ると城戸四郎と云う人は単なる経営者ではなく、戦前戦後を通じての大変なプロデューサーであったんだなぁ、とつくづく感心せずにはおれないのであります。

そして、“社長シリーズ”の殿は東宝の社長と云うより全身これプロデューサーの藤本真澄の「プロデューサー人生・藤本真澄映画に賭ける」であります。いみじくも“社長シリーズ”などと云ったのでありますが、あの森繁演じるところの“社長シリーズ”は正にこの藤本プロデューサーによって創られたものであります。

本書は藤本が東宝の社長に就任した時、作家の五木寛之と共に企画面の顧問に迎えられた、尾崎秀樹氏の編・構成によるもので「映画に賭けた男=藤本真澄の足跡を、その折々に交渉のあった人々の回想と、彼自身の自叙伝によって構成したものである。」と “あとがき”にある通り、第1章と第3章は“私とプロデューサー藤本真澄”のタイトルで 作家石川達三、源氏慶太他、石原慎太郎 他、俳優小林桂樹、森繁久弥、加山雄三 他、監督市川 昆、須川栄三、岡本喜八 他 等々よる回想談であり、第2章は藤本自身の書き下ろし(昭和53年)による“一プロデューサーの自叙伝”となっております。

藤本真澄は本書に登場する各氏が云われる通り、映画に惚れ込みそれこそ映画に一生を賭けたプロデューサーで、68歳で亡くなるまでいつも映画の事しか頭になかったような男だったそうですな。 ここではその藤本の映画プロデューサー人生を本人が書いた自叙伝の10章からなる目次により彼がどんな時代をプロデューサーとして駆け抜けてきたかを、まず眺めてみたいと思うのであります。

  一プロデューサーの自叙伝  藤本真澄

   1.    映画少年時代(大正10年頃)

   2.    映画青年時代〈昭和初期〉

   3.    明治製菓の宣伝マン時代(昭和7年頃)

   4.    P・C・L入社 張り切り時代(昭和12年)

   5.    駈け出しプロデューサー時代〈昭和17年頃〉

   6.    占領軍の検閲と東宝争議の中で〈昭和20年頃〉

 7.    喜びも悲しみも独立プロ時代〈昭和24年頃〉

   8.    ふたたび東宝・初志貫徹の押せ押せ時代〈昭和27年頃〉

   9.量産時代の量産プロデューサー〈昭和35年頃〉

  10.一つの時代の終わり〈昭和40年頃〉

 どうです、凄い時代を駆け抜けたもんですな。
明治製菓の宣伝マンであった藤本が「明治製菓の文化映画」の発注先である「P・C・L映画」に、その頃プロデューサーであった森 岩雄の誘いで入社したのが昭和12年です。その後助監督として今井正や島津保次郎に着いてプロデューサーとしての特訓を受けたり、東宝争議を経た後、当時新聞小説で人気を博していた作家 石坂洋次郎を迎えて藤本プロを設立し、「青い山脈」で独立プロデューサーとしての大ヒットを飛ばします。

昭和26年専属プロデューサーとして東宝に復帰した後は、慶応義塾の映画研究会時代からの知合いである成瀬巳喜男と組んで林芙美子原作の「めし」を制作し好評を博し、続いてあの名作「浮雲」をはじめとする成瀬作品を次々と制作します。その後「三等重役」で新しいサラリーマン映画を制作し「社長シリーズの」原点がここに出来上がるのであります。 

昭和30年代の後半から40年代の戦後日本映画黄金時代に入り、量産体制をひた走る藤本はこの他にも「お姐ちゃんシリーズ」、「若大将シリーズ」、「無責任シリーズ」等々東宝の名物シリーズを続々と製作してゆきます。 これらの“徹底した娯楽映画”を量産する事について藤本は映画プロデューサーとして次のように語っているのです。

「日本映画の全体の水準を高めるためには、黒澤作品のように世界の映画の水準に迫り、抜く作品を制作することももちろん必要だが、劣悪な水準以下の作品を作らないように努力することも必要だと、量産映画の国の量産製作者としてはいつか考えるようになった。 日本の水泳の水準を向上させるために世界記録の泳者を作ることも必要だが、泳げない人をなくすことも必要である。 国民皆泳となれば自然その中から世界記録の泳者も出るというのが私の説である。 何時しかこの自説が“B級映画論”などと批評家の一部に云われるようになった。」と、なかなかいいことを云うではありませんか。 泣けてきますよね。 それにしても映画にやたら芸術的価値ばかりを求める批評家と云うものが何時の時代にもいるもんですな。 そしてこの自伝の言葉は藤本が一連のシリーズ製作に意義を見出したことを示していると、この本の編者である尾崎秀樹は“あとがき”で述べております。

如何でしたか。 こうして日本映画の黄金時代を築いてきた大プロデューサーの本をまとめて読んでみますと、東映、大映、松竹、東宝それぞれの会社の作品カラーがそれぞれの社長の経営方針あるいは個性、又は独自の映画理論によって出来上がっていた事をつくづく感じさせられますなぁ。  特に、ものを創る会社は個性的なリーダーなり、カリスマ社長がいなくちゃ駄目なんでしょうな。(う〜ム、、、) 
 と云う事で今回の“社長シリーズ”はお開きにさせていただきます。

            
 長々とお付き合いの程、誠にありがとうございました。  店主   (01.06.10
                                                “店主のくりごと”第5回へ

        ←トップページへ戻る